子午線の祀り





 空では長い皆既月蝕が終わり、影から姿を現した光が丸い形を取り戻していく。
 無に浮かぶ光の弓。
 闇に浮かぶ赤い新月から光の満月へ、ゆっくりと満ち太っていく。

 世界の終わりとはこんな風景なんだろう。
 地面が崩れていく、崩れ落た地面は虚空へ吸い込まれていく。
 その様子、背後から迫ってくる崩壊を覗きこまなくても分かる、何故なら視界に映る地面全てがひび割れ、どんどんと崩れ落ちていたからだ。
 落ちる、いや空へ吸い込まれ砕け散る岩。地面が浮き上がっては崩れ、それが何処とも知れない暗闇に消えていく。
 なんてデタラメな光景だ。
 その真ん中に居る自分達の足元はまだ崩れていない、運がいい事に。
 運がいい……?
 いや、そうじゃない。
 足は一つの影を追っていた。
 女だ、長い髪の女。
 駆けるというよりは地を蹴り跳ねるその姿を、追う、自分。
 追ってその場を離れるとすぐに地面は崩れる、それを目の端で捕らえながら再び女の姿を追うとまた何処かへ逃げる。追う、逃げる、追う。
 ゆらぎ、消えそうになる足元を踏みしめてただひたすら女を追う。そんなことをしている場合ではない、さっさとこのおかしな場所から逃げ出す方法を見つけなれればいけない。
 そう考える自分がいるが、そんなものは無視して追う。
 そうしろと、自分の中の深い場所から怒鳴りつける自分が居た。
 自分がこの崩れていく世界で無事なのは、たったそれだけの理由でだった。



 何一つおかしい事なんか無い毎日の中に居た筈だった。
 ある日、何の事故に遭ったのか半年位の記憶がすっぽりと抜け落ちて、何故か京都で倒れていた俺は、家のある東京に帰ってしばらくして、再び怪しげなバイトに飛び込んだ。自分から飛び込んだというより、名指しで呼び止められて半ば無理やり連れ込まれたようなものだったが。
「君の名前を聞きたいんだが」
「あァ?俺か。チハヤってんだ、それがどうした」
 一種嫌な予感めいたものもあったが、それ以上に何か感じるものが、忘れてしまったモノの手がかりがあるような気がして、そこへ飛び込んでいた。
 バイト先は新しく出来た警備会社。
『野生動物の被害から悪霊払い、失恋からの立ち直りまであらゆるサービスを行っております』
 どっかのでかい会社が新しく作った子会社だとかでテレビの取材が来た時に社長はそんなことを言っていた。警備というよりは何でも屋みたいな宣伝文句だ。
 ミカヅチセキュリティサービス。
 寄せ集めにも見える社員とバイト連中。胡散臭いと、この時に引き返していれば良かったんだが、不思議と脱落者は出なかった。多分集められた連中全員、自分と同じく頭の中に何か引っかかるものがあるらしかった。
 そして信じられないような異常は起こる。
 突然割れた空からわいて出るバケモノと戦えとか一体どうしろっていうんだ。
 しかも別の世界だかなんだかに行って敵のボスを倒せとか、どんな冗談だ。



 そんなことがあり今、俺はわけのわからない世界で一人で逃げていた。
 女の背を追いながら。
 身を守るのは、渡されたヘルメットと特殊スーツとか言われたツナギ一枚。
 そんな頼りないものに身を包み、無我夢中のまま視界の中で動く影、ただそれだけを追って、無意識のうちに頼りにして走っていた。
 元は仲間達と一緒に逃げていたが、崩れた谷に邪魔されて自分ひとり生き別れだ。
 連中と一緒の所に戻ろうとはしたが、どんどん開く地面の裂け目はモタモタしていると自分も飲み込んでしまいそうな勢いで広がっていた。
「クソっ!」
 舌打ちしてとにかく谷から遠くへ逃げた。どこかに逃げ道がある、こんなわかんねぇ所で死んでたまるかと思いながら。
 息苦しさにヘルメットを投げ捨てる。同時に視界も開けるが壊れる世界以外新しく何が見えるものでもない。
 何も無い、誰も居ない視界。
 そこに現れた一つの影。
 長い髪に着物姿、細長い……時代劇にでも出てきそうな帽子。
 火の色の光が空を焦がし、暗く崩れていく地面の上。女が着る鮮やかな朱の色の袴が目を引いたが、それよりも異様なのは女の頭を飾る大きな角の飾り。
 見たことがある、枝分かれした角、アレは鹿の角だ。それが黒くて細長い帽子の下から生えている。
 芝居か映画か、と。今ここで無かったら思っただろう。
 だが山ほどのバケモノを見た後、アレは本物なんだろうと咄嗟に理解した。
 良く見ると袴から覗く女の足は蹄で、頭には毛の生えた獣の耳が生えていた。
 その女は大きな弓を構えていた。こちらに向かい矢を番えて弦を引いている。
 あいつにやられちまうんだろうか、そう思った瞬間女は天に向かい弓を構え矢は女の手を離れた。
 その矢は天に向かって飛ぶ。
 落ちてくる!と思わず両手で頭を覆ったが、すぐにそれは間違いだったと気付く。
 女が射たのは天の頂、そこから無数に降って来るのは赤い光。
 それは暗い空を駆ける流星を思わせた。
 流れる光は、ほの暗い足元を照らし出す。
 女は背を向け駆け出した。
「ま、待てよ!」
 思わず後を追う。
 赤い光は流星の如く降り続ける。
 駆けるというよりは地を蹴り飛ぶ女、時折振り返りこっちを見る。
 訳も分からず追い続ける自分。なんだ、ひどく胸が痛い。
 息苦しいとか走り続けているからじゃなく、ただひたすらに。
 もどかしく切ない、痛みだ。
 女には決して近づけない、遠ざからないが近づけもしない。
 思わず手を伸ばす。届く筈なんか無い距離なのに。
 手が空を切り、落ちてくる星の光が地面に影を一瞬落とす。
 空っぽの手の像を地面に落とす。
 走る、走る、走る。
 息が切れて苦しくなってもただひたすら、崩れる地面から逃げて、女の姿を追って。
 星が途切れた暗闇に、両足がもつれて転んだ。
 女はまた弓を射る、俺は立ち上がりその隙に距離を詰める。
 あと一歩、髪先に触れられそうになったところで逃げられる。
 打った足が痛い、だけど走り続ける。
 星が落とす影法師が二人の周りをぐるぐると回って、まるでテレビか映画か何かだ。
 いや、ガキの頃見た劇だ、多分こんな風に光を降らせていた。
 多分コレは懐かしい風景だ。
 足下に広がる闇は夜の海のようにも思えた。
 海の果てまで続く道。登って降りて、また登る。坂を登る、登る。
 そんな果てしなく続くように思えた追いかけっこ。
 だが終わりは来る。
 女は登ってきた高台が終わる崖の端で立ち止まり、無言で振り返った。
 言葉無く指差す眼下には、恐らくはこの世界からの出口。宙に浮く木枠の戸。
 俺と同じく本隊からはぐれたらしいヤツが数人、獣みたいな外見のバケモノ、いや、妖怪だか………カミだかに連れてこられて、障子っぽい外見の出口に入らされていた。
 どいつも酷く嫌そうだった。
「………行けってのか」
 無言で頷く女。
「お前は………………」
 手を伸ばそうとして拒否される。
 女は何もいわず頭を横に振る。
「後はひとりで、行けって事か」
 その言葉に答え頷く女。見せた笑顔は何処か寂しげにも見えた。
「………………………ああ」
 何か言いたいし、何か分からないが尋ねたい。何かの声が聞きたいし、なんでもいい、とにかく言いたい。
 お前は誰なんだ、と。
 だが背後から地面の崩れる音が迫ってくる。もう時間は無い。
 どうしても離れたくないのに否応無しにこの場から離れろと急かされる。
 頭が痛い。
 誰だったか知っているはずなのに。知っている、と頭の中で鳴っているのに。
 真っ白になってしまった何かが全部、全部、記憶を上書きして思い出すことを許さない。
 この奇妙な世界に来て、忘れていたものを思い出しかけているのに。
 足元の地面に細かなひびが入った。
「………クソっ!」
 すぐにここも崩れる。
 チハヤは諦めて足を動かすしかなかった。ここで死んだらこいつが悲しむ、それくらいは分かる。
 その場に女を残しチハヤは崖下に向かって、なだらかな斜面を選んで滑り降りようとした。
 だが地面の崩壊は思いのほか早かった。
「!」
 崖の中程に突然開いた亀裂は滑り降りるチハヤの前に立ちはだかり、周囲全てを深い闇の中へ飲み込もうとしていた。
「やべっ!」
 方向を変えようとしたが先程転んで打った膝が重い痛みを放った。
 消えていく土くれ、チハヤもその一つとして狭間に消え果そうになるその一瞬。
「チハヤ!」
 呼ばれて、咄嗟に手を伸ばす。
 飛ぶ女、長い髪が宙を舞い、掌はチハヤの腕を強く掴む。
「―――――クレナイ!」
 紅い星が、女の赤い瞳がチハヤを見た。
 地を蹴り矢の如く飛ぶ式神の姿は紅の流星。
 式神はチハヤの腕を掴んだまま一息に下まで跳ねる。
 その姿に、少年は何も言えず沈黙するしかなかった。
 沈黙の一瞬に、式紙が持っていった記憶が少年へと一息に流れ込んで行く。
 それはまるで月の力で海の満ち引きが逆に変わるが如く。
 川を遡る記憶の海。
「――――――――――」
 言葉など出なかった。
 一緒に歩いた季節も、言葉も、思い出も、その輝きが胸を焦がす。
 言いたいことは沢山あるはずなのに。
 ドスン。
「いてえっ!」
 無様に着地した痛みで我に返る。
 クレナイが優雅に着地したのに対し、手を引かれたまま一瞬遅れて着地したチハヤは格好悪くしりもちをつく。
「………チハヤはいつまでも、子供みたいですね」
 頭の上から降って来る声が酷く懐かしかった。
「………………うるせぇ」
 涙が出そうだった。憎まれ口をたたきながら手を強く握った。
「………クレナイはあれからずっと、一人だったのかよ」
 今度はチハヤが言った。
「………………そう、ですね」
 クレナイは小さく笑った。
 音が消えて、握った手が熱くて、息も止まりそうな時間だった。
 だがそれも一瞬。
 地鳴りがした。
「さあチハヤ行きなさい、戻るのです!」
 クレナイはチハヤの腕を引き立ち上がらせ、人間世界へ続く出口へと歩くのを促す。
「――――クレナイは、よぅ………?」
 言葉が上手く続けられなかったチハヤは口の端をあげ、精一杯、笑顔っぽく見えそうなものを作った。
 何を言いたいかは、言葉が無くとも伝わっていた。
「………………」
 だが投げられた問いかけへの答えは、寂しそうに笑ったクレナイの顔だった。
 チハヤの握る手に力が入る。
「………………俺、あれから………多分しっかりやってる。前よりずっとちゃんとやってる」
「………ええ、チハヤなら、必ずそうだと思っていました」
「クレナイに教えられたこととか………全部忘れたはずなのに、でもどっか覚えてて、一生懸命やってる………。仲間も出来た………」
「………………」
「…………本当は………見てもらいたかった」
 クレナイは頭を振る。
 長い髪が彼女の表情を隠した。
 だがチハヤにはその表情が分かる気がした。
「俺は忘れない、絶対に―――!」
「忘れません、私も。チハヤの事を……」
 時が迫っていた。
「こんなに出来の悪ぃ、叱ってばかりの闘神士をか?」
「私は貴方に、怒った顔しか見せていないのでしたっけ?」
 崩れ落ちる足元に急かされる。
「俺っ………忘れない、絶対に………だ!」
 そう、体の中から吐き出した言葉を覆うように。
「……チハヤ」
 呟かれる名前は雑音全てを遮り優しく耳に響き、その額には女の唇が触れた。
 一瞬。
 そして離れるのと同時に指も解けた。
 甦る音、流れ出す時間。チハヤは突き飛ばされるように格子の向こうへ押し込まれると直ぐに障子が閉められる。
 この世界、伏魔殿から消える木戸。人間界とを繋ぐ道。
 それとほぼ同時にさっきまで人間達が立っていた地面も砕け消え失せる。
 ウツホが消え、伏魔殿もまた消えようとした一瞬、この場所で式神を形作る理は乱れ、その意思のままに人と交わる。
 最後の主達を見送った式神達は言霊の形となり、四季の力満ちる狭間へと静かに溶けて行った。




 宵の入りの空に月が丸く浮かんでいた。
 何処をどう歩いたのか、辿り着いた出口の先には混乱で散り散りになっていたミカヅチセキュリティの仲間達と、天流のヤクモが居た。
 あんな中、誰一人欠ける事無く戻ってきていた。
 どうやって戻ってきたのかという問いに答えられない者も多かった。あまりの混乱にか、記憶が飛んでいた。
「―――――――」
 チハヤは空を見上げていた。
 夕焼け残る空に光る星。
「…………忘れない」
 真っ白になってしまった頭、けれど心まで空っぽになってしまったわけではない。
 夢のように朧な記憶の感触。
 理由も分からず涙が出た。
 心の中に満ちた何かの感情が忘れ得ぬ痛みと、笑顔の軌跡。
 流れる星が夜空に残す残像のように。美しく、儚く、そして忘れること無い思い出となって記憶に焼き付く。
 頬に一筋流れ落ちた涙を拭い、チハヤは目を閉じた。
「―――――」
 呼ぼうとした名は形にならなかった。
 契約を交わしていない人間と、かつて契約していた式神。会う筈のない者達が世の理及ばぬ場所で思いを交わす。
 それは一瞬だけの幻。
 だが記憶の海に落ちた影は理の波にかき消される事無くその姿を残す。
 幻と現実が交差する、満ち欠けする月の見せた。

 ―――子午線の祀り。

 満ちた月の残照、星が描く光の軌跡、満潮が残す潮の跡。
 まるでそんな曖昧さと美しさにも似た感覚で、自分を助けてくれた、あの長い髪の女の姿が瞼の裏に残っていた。
「……………」
 赤い星が流れる空の幻。
 少年は言葉が出ない喉の奥で何かを呟く。
 その言葉を忘れないように、何度も何度も噛み締めながら。






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