夜行




 どうしてそうなってしまったかはあまり良く覚えていない。

 飛鳥神社の所有する山中にある洞穴、そこでいつも修行をしていた。だが自分が立ち入っていたのは最初の大きな空洞、修行の間までだった。
 洞窟自体は更に続き、地の底深くに向かい枝分かれしているのだった。
「この修行の間から先は危険だから進んではいけない」
 そう父から強く言われていた。
 慢心していたのか、油断していたのか、好奇心が判断を鈍らせたのか。
 妖気に当てられたのだろう、と後に己の黒い式神は言っていた。



 神操機を手にした幼い兄弟。
 ひとつは封印されていた黒い神操機、兄のユーマ。もし両親の元受け継がれたなら封印されたまま飾りとして社の奥の祭壇に置かれているだけであっただろう物。
 一つは母が持ち出していた光の色をした神操機、弟のソーマ。神事の時に父親が持っているのを見た事がある。
 何故父から受け継ぐはずだったこれが持ち出され、そして社の奥に封印されていた筈の神操機が契約の間にあったのか。幼い兄弟には分からなかった。
 地流に受け継がれる表と裏の神操機。それを受け継いだ兄弟は孤独の中に居た。
 ―――忌式・禍怨蚤。
 地流宗家・ミカヅチより梵櫃の呪怨符の呪いを受けた父は石の柱となり今は地流本部の人柱の間に在る。そして神操機を携えミカヅチとの戦いに挑んだ母は戦いに敗れ記憶を失い、いま兄弟の隣には居ない。
 地流本部からはこの社を空け渡し、子供達は同じような身の上の子供達が集められた施設へ来るようにと、幼い兄弟にとっては横暴としか受け取れない命令が下っていた。
 突然変わってしまった全ての環境にどうすればいいのか分からなかった。
 だが父母を失った代わりであるかのように兄弟は式神との契約を得ていた。自分を守る者と契約をした。
 命令を遂行しろという催促は数日おきに来る。
 ユーマは何かを忘れようとするかのように修行に励んでいた。
 更に高度な技、強い相手を求めるようになっていた。



 壁には正体の知れない薄明かりが続き、ほの暗く続く道。
 地下水が染み出しているのか足元に時々水音。
「にぃちゃあん……かえろうよぅ…………」
「帰りたかったら一人で帰れ」
「やだぁあぁぁ……怖いよぅ……」
 半べそで兄に縋り付こうとするソーマ。しかしすぐに払われる。
 兄、ユーマは変わったとソーマは思っていた。
 昔はもっと優しかった。
 全く躊躇うことなく前に進んでいくユーマ、急ぎ足で追うソーマ。追いかけるので精一杯で辺りのことなど見ている余裕は無い。

 ユーマは多分焦っていたのだ。
 両親が突然居なくなって如何に自分達が何も出来ないか、自分の足で立つには足りないものが多すぎると思い知る毎日だった。
 幸か不幸か、契約をした己の式神は獰猛で戦う事を好みそうな外見の割によく物を知っていて、自分があまりにも間違った事をしようとすると助言をくれた。
 しかしそれは両親が子供に与えるような甘いものではなく、ユーマにとっては厳しく感じられるものも多かった。
 その度にユーマは、厳しく見えた両親が如何に自分を甘えさせてくれていたか思い知る。
 自分が契約した式神は自分の事を嫌いなのかとか、不満に思っているのではないだろうかとも思ったが、やがてユーマは気がつく。
 ああ、この式神は、自分を一人前の闘神士として扱ってくれているのだ。
 だからこんなにも自分は無力さを思い知る。
 そこに居てくれることがありがたかった。そして早く大きく、白虎のランゲツの信頼に足る一人前の闘神士になりたかった。
 そして、ユーマは知らぬうちに周囲を見渡す余裕を無くす。弟のソーマにも今までより厳しく接するようになっていた。それはソーマの為にと思っていたはずだったが、厳しさというよりユーマ本人も気づいていない焦りや苛立ちから生じる八つ当たりだったのかもしれないが。
 自分達はなんて幼いのだろうと知ってしまったが為の。

 やがて洞窟の中の道が終わる。
 そこは今までよりも広くなった、修行の間にも似た空洞だった。
 続く洞穴の先に何があるのかと緊張していたが、結局ここまで来ても黒い岩が転がっているだけで何も無かった。
 明かりに照らされた岩の影がゆらゆらと揺らめく。
 ソーマはほっとして兄の服の裾を引く。
「にぃちゃん……帰ろうよ……」
 ユーマもまた、何があるのかと気を張って進んできたのに道の終着点を見て拍子抜けしていた。
 ここは外れだったか、とユーマは振り返り元来た道を戻ろうとした。
 その時ユーマの後ろから声がした。
『ユーマ!降神しろ!』
「!」
 ユーマが振り返るのと同時だった。
 背後から何かが二人の身体を掴み持ち上げるとその身体に無数の生暖かい何かが絡み付いてきた。
「やぁああぁぁぁぁ!フサノシン!フサノシンっ!」
 ソーマが叫び手に持っていた自分の神操機を無闇に振り回す。
「ソーマ!」
 一瞬の閃光。闇を裂いて現れた雷鳥の式神が刃を振るいソーマを捕らえていた何かを切断する。
「うわぁあああぁぁ!」
 ユーマは何物かに足を取られて転ぶ。神操機が手から落ちそうになる。
「フサノシンんっ!」
 ソーマが叫ぶ。再び闇から湧き出てきた無数の細い腕、いや肉の色が毒々しい無数の触手。
「ちいっ!呑蛭か!」
 フサノシンは再び薙ぎ払う。触手で獲物を捕らえる妖怪、強いわけではないが大物や数が多くなると厄介な相手だ。
「やだっ!ふさ、フサノシンたすけて助けてぇええっ!」
 怯えて動けなくなっている自分の闘神士を助けようとフサノシンは駆け寄る。
 フサノシンは鳥の式神。こんな狭い、そして視界も効かない洞窟内では全く力を発揮できない。
 闇の中に刃が閃く。陰陽手槍・雷鳴王を振るいながらもフサノシンはソーマと共に早くこの場所から離れなければと焦っていた。
「ランゲツ…………ッ!」
 ユーマは身動きが取れない。
 妖怪の触手はユーマの身体を捕らえて離さない。
 手から滑り落ちた神操機は既に手の届かない場所にある。
 太い触手が身体を掴み、細くぬるりとした粘液に包まれた肉の棒は服の下に入り込んでいく。
 ユーマは戦えない、フサノシンは声を張り上げる。
「ソーマっ…………印を……っ……!」
 しかし余りにも幼い契約者はするべきことも分からず、混乱した今はただ助けを求める事しか出来ずにいた。
 ソーマを捕らえる触手。降神した自分の式神にばかり注意が行っていて、ソーマは自分自身に忍び寄る腕には全く気づけなかったのだ。
 闘神士から気力を与えられない式神の力は半減する。
 ソーマを助けようとするフサノシン。だがあまりに多い敵の腕に彼もまた子供達と同じくその身体を絡め取られてしまっていた。
 幼い童。
 その姿とは相反するような赤黒い肉の塊。
 触手に捕まえられている姿は痛々しい。
「にぃちゃあん…………フサノシンんっ……………」
 子供は細く呼ぶ。
 小さな手足、それは余りにも無力だ。
 着ていた物を剥ぎ取られ赤子が寝転がるかのように両足を広げさせられて、そして無防備な下半身に触手は這い寄る。
 触手から透明な汁が零れる。それがソーマの柔肌を濡らして行く。
 滑った身体の表面を触手が這う。そしてソーマの柔らかな尻の間へと魔手を伸ばす。
「やっ、やだそこやだっ!き、きたない………んゃぁああぁぁ!」
 太い肉棒がずぶりと突き刺さる。
「ひぎ………ぅぅぅ………………」
 悲鳴も声にならない。
 痛みを殺す妖怪の体液、しかしあまりの質量を突き入れられてソーマは全身を強張らせる。
「いた、いたい………ぁああぁぁ………!」
 白い肌。その中で執拗にねぶられた胸の突起と、太い肉を突き入れられた尻の窄まりだけが赤く色付いている。
 いっぱいに広げられて、そこに太く血走った硬肉を咥え込まされて、それがソーマの意思など構うことなくずぷりずぷりと蠢いている。
「いゃあぁぁぁ………」
 なのにそれが次第にキモチイイと錯覚してきて、動くたびに中から汁が溢れ出して来るのがすごくうれしいことのような気がしてきて、だらしなく半開きになった口元に這い寄ってきた触手をソーマは知らぬうちに咥えていた。
 頭を何も考えさせなくする汁がソーマの目を空ろにさせる。そしてまだ何も知らない幼い性を解放させる。
「きゃ………」
 女の子のような甲高い声。口元から抜けた肉棒はソーマの胸に濁液を吐く。
 快感にびくびくと上に突き上げるソーマの股間からは幼さゆえに何も零れはしない。
 しかし妖は構うことなくソーマを苛め続ける。
 快感に踊らされながら。誰も来ない、誰も助けてくれない。その心細さにソーマは泣く。その空虚を触手は貪る。
 妖怪にされるがままにされて、そして訳も分からないままに幼い性器を弄られ、時折全身をぶるぶると震わせては大粒の涙を流す。
「にいちゃあん…………ヘンだよ…………ボク…………たすけて…………たすけてぇ……………………」
 その声は兄の耳にも、そして子供が契約したばかりの式神の耳にも届いていた。

 気を喰らう妖怪。
 妖怪といっても様々在り、害を成す事もなく暗闇に潜む物から、自らの糧とするために人間を襲うものまで居る。
 その中でもコレは人を喰らう、式神の扱いも未熟で戦いの経験もない子供たちが相手にするには最悪の部類の妖だった。
 喰うといっても肉を喰らうわけではない。こいつが食うのは感情から湧き上がる気、負の感情だった。
 絶望や無力感、怒り哀しみ、そんなものを精と共に絞り上げて喰らう魂喰らい。
 触手を包む粘液は人の思考を衰えさせる。
 フサノシンは式神であるが故に頭ははっきりとしていたが逆にそれが不幸か、真綿で首を絞められるように気を搾られる人間達とは違い、ただ精を吐き出す事だけを強要されていた。
 広げられた尻穴の中で蠢く触手。それが酷く意識が飛ぶ場所を何度も突き上げてきてもう何度精を吐いたか分からない。
 意識が途切れそうになると奥の方で熱い飛沫が注ぎ込まれて覚醒する。
 淫気を含んだ濃い粘液が四肢を過敏にさせてまた達してしまう。
 逆さ釣りにされた状態で自分の精を浴びるフサノシン。それを妖怪の触手が這い回って舐め取っていく。
 おかしくなりそうだ。
 染み込んだ淫気に頭の芯までやられそうだ。
 腰が熱くて、身体が勝手に動いていい場所を擦って欲しいと強請る。
 奥まで一杯に広げられた肉穴からまたいやらしい気持ちにさせる汁が溢れ出して来て下半身がまた濡らされる。
 尻が跳ね上がる。
 そしてまた堪えきれなくなって精を放つ。
「ソー……マ………………」
 フサノシンは何処かに居るであろう自分の闘神士の名を呼ぶ。
 返事は、無かった

 赤黒い色の肉の鞭、妖怪から生え出している無数の触手は粘液でぬめぬめと光っていた。
 まちまちの太さのそれは全身を這い回って粘液で汚していく。
 直立に近い姿で捕らえられているユーマは横に脚を開かされる。
 喰われるのか、それとも四肢を裂かれるのか。そう思いユーマは身を硬くした。しかし妖怪は自分を傷付けようとはしてこなかった。いやむしろ壊れ物でも磨くかのように無数の腕を自分にこすり付けてきた。
 べたりとした感触のそれが身体に擦り寄るたびに気色悪さだけを感じていたが、次第にそれが奇妙な感覚を生むようになり、やがて身体の中から熱さを生じさせてきた。
「んん……っ……」
 ユーマは歯を食いしばって口から声が漏れるのを止めようとする。しかし声は止まらない。
「あ……ぅ…………っ」
 信じられないような声だった。甘ったるく鼻にかかった声。
 ぬるりとした感触を求め声を上げている自分が居た。
「や…………っ……ラン…………ゲツ…………」
 届かない。いくら助けを求めようと現世に降神していない式神は何もすることが出来ない。自分がどうしてこんな事になっているのか全く分からないままユーマはもがく。
「ひぁっ!」
 服の隙間で動く触手に悲鳴を上げる。
 溶かされるかのように。ゆっくりと服を剥いで行く腕。
 何をされるのか分からない恐怖。
 振り払えない。己の無力さに絶望しながらユーマは自分の意思とは関係なく鼓動を昂ぶらせて行った。
「ランゲツ………あ……ぁぁ…………っ……」
 呼ぶ。繰り返す。
 膝が細かく震えた。
 服の下、下穿きの中に隠されていた小さな穴。肌を探っていた触手は尻肉のラインを辿るとためらうことなくその場所を貫いた。
「ひぐっ」
 衝撃に声が出た。
 粘液に包まれた触手はゆっくりとユーマの中を探る。出口であるはずの場所を入り口としてどんどん入り込んでいくおぞましさに総毛立った。
 だがその排泄器官を擦られる感触、それは人間の最も単純な快感の一つでありそして妖怪が人の精を啜る時に最も簡単に搾り出せる場所でもある。
 妖怪が纏う妖しい粘液は痛みを麻痺させて快感だけを作り出す。
 ひくっ、と下肢が動く。
 顕にされた下半身に細い肉の束が先を争うように絡みつく。
 少年の姿をした性器を包み込み垂れていた透明な汁に争うように群がる肉の繊毛。終いには未熟な肉棒の先端を割って中へと入ろうとするものもある。
「ラン………ゲツ………………」
 呼んでいるのか、求めているのか。
 高く震える嬌声交じりの声に混ざって呼ばれる名。
 びくびくと身体を震わせるたびに視点が合わなくなっていく。考えられない、精を放つことしか考えられなくなっていく。
「あ………ぁあ………ランゲツぅ………………」
 一瞬ランゲツの姿が脳裏に浮かぶ。全部見られている、あの目で。
 あの手で捕らえられてランゲツの指が自分の身体を這ったら、そしていま一杯に詰め込まれている身体の中の肉がランゲツの一部だったら………。
 口に注がれた淫液が思考を腐らせていく。唾液が口元から垂れる。浴びせられた汁に皮膚が震えて胸が赤く膨れていた。それを肉で擦られるたびに誰かに抱かれている幻が過ぎる。
 性器の裏、内側のひどく敏感な所を擦られて腹が震えた。精を溜めた嚢は膨れて触られるだけで達していまいそうになっていた。
 全部、触られている。暴かれている。
 頭の中が白くなる。
「あ、あぁああっ!」
 内に熱い粘液が注がれてユーマは前に身体を倒した。
 肉棒を詰め込まれた柔肉が強く締まる。
「……んっ…んぁっ!あっ!………んんんっ!」
 膝を震わせて涙目で叫ぶユーマ。何度も腰を前に突き出して濃い精を吐き出す。
 吐いた精が触手達に啜られる。精を放ったばかりで敏感になっている場所を執拗に弄られてユーマは呻いた。
 しかしそれよりユーマは震えていた。幻に浮かされて何を………自分は今何を考えた、と。
 熱くなっていた思考が凍える。冷静に自分を感じてユーマは僅かに正気を取り戻す。
 視線を周囲に走らせると足元に神操機が落ちているのが見えた。だが手は全く届かない。
「ラ……ン……ゲツ………………」
 自分はまた呼んでいる。助けて、助けてと頭の中で弱い声が繰り返す。
 だが声は届かない。式神は降神されないと何も出来はしない。
 誰も居ない、自分しか。
 この場を、この状況を変えるのは自分しかいない、自分にしか出来ない。
 緩む口元を強く咬む。
 何か無いか、あるはず。手が届かない神操機に届かせる為に。
 ユーマは触手に抗おうとするが人の力ではどうにも出来ない。
 人の力ではないもの、式神、神操機、術………。
「………………うぁ………」
 尻穴を広げられてユーマは喘いだ。抜かれて、再び内壁を抉って太い肉が突き入れられる。また注ぎ込まれた熱い濁液に身体の奥が甘ったるく痺れる。頭が蕩けて行く。力が入らなくなる。
 内壁を擦りながら太い肉がゆっくりと抜け落ちた感触にユーマは口をあけて獣のようにひゅうひゅうと息をした。何度も注がれて閉じきらない肉穴から粘液がゆっくり脚へと流れ落ちていく。
 まだ、もっと肉が欲しい。淫気にやられた頭が腰を振る。
 ………服の中に。
 懐に、まだ使いこなせていない闘神符が入っている。
 淫らな思考に抗い腕に辛うじて絡み付いている上着を掌で必死にかき寄せる。
 指に硬いものが触れた。
 どうすればいい、どうすれば………。
「ひうっ………………ひっ………あぁぁ………………」
 肉が擦れ合う音の向こうからソーマのすすり泣く声が耳に届いた。
 腰が反応する。
「ッ!」
 ユーマは歯を食いしばり指先に当たったものを引き寄せて握り締めた。
「このオぉぉぉぉぉォっ!」
 火、ユーマの手元から印が浮かび洞窟を眩しく照らし出す。
 火が巻き上がるというよりそれは小さな爆発だった。炎は一瞬赤く大きく燃え上がりユーマの身体を捕らえていた妖怪の腕を吹き飛ばす。
 ユーマの抵抗は全身が自由になるという程の物では無かったが、腕を伸ばし神操機を拾い上げるには十分だった。
「式神………降神!」
 ユーマはもつれる舌で音を吐き出す。
「来い!白虎のランゲツ!」
 残った全ての気力を注ぎ神操機を開く。ユーマにはもう力も、まともな思考もこれ以上吐き出せなかった。
 しん、と音も無い。
 ユーマは絶望する。自分にはやはり無理だったのか、と。
 次の瞬間、冷たい殺気に空気が震えた。
 音も無く切断されていく妖怪の姿。時折視界を覆う黒い影。
「ラン……ゲツ…………」
 霞む視界にユーマはよろめく。
 立て、立っていなければいけない。俺はランゲツの闘神士なんだから。
 そして、守らないといけない………………。
 限界だった。気力を吸い取られた身体でランゲツを降神したのだ、ユーマはもう空っぽだった。
 ぐらり、後ろによろめく。
 景色が変わる。天井が目の中で水平になっていっているのに平行感覚も物を考える事も、全てがおかしくなって何が起こっているのか分からない。
 とすり、ユーマが倒れこんだのはランゲツの腕の中だった。だがもうユーマには何も見えない。
 気を失っていた。
 ランゲツは自分を呼び出した闘神士の姿を見た。
 手が焼けている。
 本人はまだ気がついていないが後でひどく痛むだろう。
「………………」
 軽く眉根を寄せる。
「うぅ…………」
 その時、背後から声がした。
 転がる妖怪の肉片の間に倒れているのは式神、フサノシン。そしてその闘神士のソーマ。ソーマも意識を失っている。
 無防備な姿でぜいぜいと息をするフサノシン。
 自分達を捕らえていた妖怪を一瞬のうちに引き裂いた荒ぶる式神ランゲツ。今攻撃をされたら自分はソーマとの契約を消されてしまうだろう。だがランゲツは自分に対して敵意を持っていないようだった。否、視界にすら入っていない、認識されているかも怪しかった。
 敵とみなす事すら不要という事か、フサノシンは奥歯を噛んだが今は互いに地流そして兄弟である闘神士と契約した身。仲間同士であると考えれば敵意を持たれる筋合いは無い。そう考えることでフサノシンは平静を保とうとした。
 毛が逆立つ。震えが来る存在感。味方ならば頼もしい、その筈なのに。
 味方であれ、敵であれ、あまり近づきたい相手とは思わなかった。
「………………」
 ランゲツはフサノシンを見ても何も言わなかった。
 だがそれが、闘神士を守るどころか妖怪に捕らわれた式神は無様だと言われている様で心が乱れた。
 傷付いている者には無意味な慰めの言葉を投げる事の方が残酷だとランゲツは知っていた。
「ユーマ」
 ランゲツは腕の中の子供に呼びかける。
 答えは無い。
 持ち上げた焼けた手をランゲツの舌が舐める。
 痛かったのか、ユーマは身じろいだ。
 ランゲツは何も言わない。ユーマを抱いたままなるべく静かに立ち上がり、出口へ向かい歩き出した。
 だがふと立ち止まる。
「自分の闘神士を連れてくるが良い。それくらいは出来るだろう」
 お前達の御守はごめんだ、ランゲツはそう言いたいらしい。
 フサノシンは無様な自分の今の姿を見られて虚勢を張ったのか、それとも頭に血が上ったのか。深く考える前に咄嗟に言葉が出た。
「闘神士喰らいの非道の式神にしてはお優しいこって!」
 しまった、とフサノシンは口を噤むがもう遅い。
 黄金の目に睨まれる。その視線だけで腸を掴み出されるような寒気がした。
 だがランゲツは小鳥が怯えて上げた威嚇の声に構う事は無かった。
「……………お前の闘神士、夢だと思わせておくのが良かろう。連れ帰り休ませてやれば良い」
 予想だにしていなかった言葉。
 フサノシンは何か言おうとしたが虚勢も、かといって助けられた礼も言う事ができず彼らの背を見送った。
 フサノシンが風の噂で知っていたランゲツという式神は、最強の式神であるが故に慢心し式神としての禁を犯し闘神士を喰らい封じられた悪逆非道の存在、そんな認識だった。
 だが今居たのは思慮深い老練の武人、そしてあの闘神士を大切に思い自分がソーマを思うように優しい目で見ていた。フサノシンはそう思った。
「…………ソーマ、帰ろう」
 フサノシンはよろよろと立ち上がった。
 守るんだ、この闘神士を。
 不覚を取って、傷つけて、それでも自分は。
「もう絶対に負けやしない………。お前が立ち向かおうとするもの全てに……」
 腕に抱いた小さな身体。
 フサノシンはその重さをしっかりと身体に刻み付けた。

 ゆらゆらと浮いているような感覚。
「…………ランゲツ」
 ユーマは呟く。
 抱き上げられているのか、と気がついて。そして目を見開く。
「ソーマは…………!」
「お前の弟は、あやつの式神が助けている」
 ソーマに付き従う雷火の式神。
「そうか………」
 ユーマは息をつく。
 息をついた後に呟いた。
「良かった……………………」
 そしてユーマはやっと気がつく。
「痛…………っ」
 手の傷が痛む。
「後で医者に診せるといい」
 ユーマが手を見ると汁を揉み出した何かの若葉が湿布してあって、それがイタドリという火傷の薬草だとユーマが知るのは後になってからである。
「ランゲツ、ありがとう」
「……………………」
 礼を言われてランゲツは少し動じたようだった。この式神は何も言わないのだが何となく分かった。
 だがユーマは少し暗い顔になる。
「…………力も、技も、なにもない。俺には何も…………」
 ランゲツに抱かれ、俯きながら呟く。
「もっと強ければこんな事にはならなかった。ランゲツ、俺はお前に助けられてばかりで、弱くて、小さくて、全然何も出来ない…………」
「これから知れば良い、強くなれば良い。その為の修行だ」
「…………ああ」
 そう答えはしたがユーマの顔に暗い影が落ちる。
「力が――――欲しい…………」
 ボロボロになった自分の身体。
 力が無ければ何も出来ない、力が無ければ歩き出すことすら出来ない。
 力が無ければ奪われるばかり――――。



「……………………」




 息を吐き、目を閉じる。
 なにもできない。
 目的は皆の為にだった。手段は力だった。
 それがいつの間にか力が目的になり、皆の為にとは手段になり。
 ユーマはゆっくりと目を開ける。
 ランゲツが、居た。
「………………夢を見ていた」
「そうか」
 ランゲツは何も聞かない。
 裸足で駆け出した冬空の下、何処に行けばいいのかすら迷っていた。
 弟は離れて行き、自分を守ろうとした少女は過去を失い、自分の求めていた力を持つ――父のように慕った男は、崩れた。
 力が無い事に絶望して、何も出来ない自分に絶望したあの日の後―――。あれから様々な戦いを重ね、ひとつひとつ勝ち続け、曲がりなりにもランゲツの闘神士として恥ずかしくないような力を持ったと思っていた。力を持った筈だった。
 掌からこぼれるものが無くなる様にと。
 なのに大切に思ったものは失われていく。止められない。
 そして迷い、ここに居る。
 帰ってきた父母、弟。
 だがそれは自分の力で取り戻したとは言いがたかった。
 真か偽か、正か邪か、考えが交差する。
 何が正しいのだろうか。
 寒空の下裸足で飛び出した家。息が白く凍え、汗は冷たく肌に張り付いた。
 信じられるものは何か、ユーマはまだ答えが出せずに居た。
 最終バスの出てしまった待合室。朝一のバスをここで待つと言ったユーマに、係の人間が好意で貸してくれた長距離バス用の毛布。
 今はそれに包まり夜を明かしている最中だった。
 寒さで目を覚ましたが、雪ちらつく屋外で無いだけで随分とマシだ。
 ランゲツがぼんやりと姿を現したのでユーマは彼に身を寄せた。勿論実体を持たない身であるのだから体温などあるはずも無かったが。
 だがユーマは呟いた。
「お前と居ると、暖かい…………」
 夜の中を行く今、ランゲツの腕に抱かれてユーマは再び目を閉じ眠った。

 あの時のように。




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