寂しくて、切なくて、苦しくて、心が挫けてしまった時。
 この場所からもう動けないと思ってしまった時。
 誰かが居てくれたなら、そう思い涙が落ちた。




 白い花の欠片が降ってくる、男はそんな暗闇の中で目を覚ました。
 巨大な幹を持ち、天に向かい真っ直ぐ立つ樹の根元。
 樹は現世の物ではない。
 ここはどこだろう。


 ―――いや、元の場所に戻って来てしまっただけなのか。


 一人きりの場所で声も無く呟く。


 ―――けれど今までこの樹も花も見かけなかったねぇ、花がまるで雪みたいだ。


「…………あァ、そういえば」
 喉から漏れる枯れた音。
 現世に、呼ばれていたのだと思い出す。
 望まぬ天流宗家の座の重圧、そんな自分を呼んだのは地に封じられた魔物。
 魔に魅入られた宗家、ウツホと通じた事で物の怪憑きと陥れられて岩牢に幽閉されたこの身。

 天流のライホウ、名があった時にはそう呼ばれていた。

 息を吸う。
 冷たさが胸の中に流れ込む。
 寒い、ここはいつでも寒い。
 あの時からただ一人、ずっとここに居る。
 千年、あの時から。
 ここより動く事が出来ないまま。

 何故、と誰かが訊いた。
 それに答えてライホウは昔語りを始める、暗闇に向かって独り言のように。



 千年も前の話だ。
 天流という人間達が沢山居てね、それの一番上に宗家というのが居て、私はその宗家という場所に座らされた。何の事はない、そういう家に生まれたのだよ。
 天流は、物の怪が溢れ出て来ない様に伏魔殿へ続いていた鬼門を守るのが役目だったが、そんな役目を負っていた私を里に邑に暮らしている人達は慕ってくれた。
 しかし何より私には妹が居てね。ショウシは身分が低い天流の者の所へ嫁いで行ったがそれはそれは幸せそうで、そしてその子供のヨウメイもよく私に懐いていた。
 そんな皆の為に働こうと私は力を尽くしていたよ。
 けれど、けれどね。
 天流という流派の人間達は余りに沢山居て、とても大きな屋敷に暮らしていて。その中でいつも私の近くに居る者達は自分の富を増やす事しか考えていなかったのだよ。

 もしかして誰かにそう思わされていただけなののかもしれない。けど本当の事はもう知る事は出来ないけれどね。

 それでも私は前に進もうとした。私を慕ってくれた者達の為に。
 私が頼りにし心から信じていた者は一人、又一人と遠ざけられていき、そして私は一人になってしまった。
 私は歩き続けた。足は重く、息は苦しくなったけれど構うことなく。
 でもとうとう立ち止まってしまった時にウツホ様が私の前に現われたのだ。自分を助けて欲しい、その為に鬼門を開けてくれと、ね。そうすればお前も助けてやる、苦しい事など何も無くなると。
 楽になれる―――。
 私はそれでも迷った。
 鬼門を開けるということは今まで私が守ろうとしてきた者達が苦しむ事になるかもしれない。本当にそれでいいのかと。
 そう迷っているうちに、突然天流の人間は私の事を物の怪憑きと言って幽閉した。ウツホ様のことを知ってしまった私を。
 そしてその時に知ったのだ、鬼門を封印している理由を。そして天流の富の源とは何かを。
 宗家とは、ただの飾りにしか過ぎないのだということを。

 暗闇の中で時が過ぎて行った。
 岩壁に閉ざされながら思った、大切な者達の笑顔を、いつか又会う時の事を。
 開く事のない岩戸を、崩れる事のない岩壁を爪で掻き毟りながら、私を心配しているだろう家族の、自分が想ってきた者達の事を思って、辛うじて正気を保っていた。
 そんな私が光の下に出られたのは私を救おうとしていた者達の手ではなく、天流の者の気まぐれでも、地流の者の施しでもなく、ウツホ様の使いという男達の手でだった。
 その時に告げられたのだ。
 妹のショウシは息子のヨウメイを天流宗家にしないためにずっと逃げ回っていたのだと。
 守りたかった者は、私を捨てて逃げ出していた。


 ―――――この場所からもう動けないと思ってしまった時。


 正気を保てていたかは分からない。
 男達から渡された闘神機を振るい天流白虎を呼び、そして印を切った。
 天流の陣地に向かって。
 炎と妖が都に満ち、焼け落ちていく天流の社を空ろに目に映していた時、突然胸がひどく熱くなって。
 気がついたら深い闇の中に居た。
 千年、あの時から。
 何処にも動く事が出来ないまま。




「私の話など面白いかね?」
 自分がしてしまったことだ。
 なのに誰かに、何かに頼らずには居られない。そんな自分に悲しさを覚える。

「人とは誰もがそんな瞬間を抱えている。だからこそ、傍に居たいと望む」

「ああ、お前は変わっているな」
 そうライホウが少し笑うと。

「自分は進む路を負う者だからかもしれない。けれど、それだけではない。
 人は弱い。だが時に人は全てを省みず何かを思う、誰かを思う。そして願いを抱く。
 だから隣に居たいのだ、力になる為に」

 と。
 少し不器用な言葉で答えた。

 今まで暗闇にかき消され見えずに居た声の主の姿が見える。
「さあ前へ、我が主」
 そう言って手を差し伸べてくるのは霜花の式神、クロイチ。
 何を思ってでなく、何を望んででなく、契約すら取り交わす間もなく使役した式神。
 四大天・ガンダルヴァの力の器として呼んだそれだけの式。


 ―――――誰かが居てくれたなら


 樹を見上げる。
 花雪降らすこの大きな樹はガンダルヴァの力の名残、それが式神をここに呼んだか。
「私を主と呼ぶのか」
 ライホウはクロイチをぼんやりと目に映し言った。
 自分は人を思い、人を信じ、人に尽くし。そうやって生きてきたつもりだった。
 だが式神の事を顧みた記憶は無かった。
 戦いの度に使い捨ててきた式神、それが人を思う――考えもつかなかった。
 式神を使役する天流の宗家、それ故に式神と心を通わす事は望まれなかった。
 その力は人の為に、天流のために使えと、そればかりを教え込まれて来たのだから。
 式神に情を移して戦いを躊躇する事はあってはならなかった。
 式に、心があることすらもしかしたら気付かされていなかった。


 式神は――――


 大きなヨウメイが何か喚いていた。
 何と言っていたかな、思い出せない。
 思い出せないが。
「クロイチ、私の手を引くか」
 ライホウは言った。
 式神の手は、冷たい男の手を掴む。
「喜んで」
 そして進む。一歩、二歩と、暗闇の中から。


 それはほんの数歩。前に進んだ先に。
「ああ、お前は……。そこに居たのだね」
 ライホウは呟いた。
 懐かしい姿。
 会う事叶わなかった妹、ショウシ。
 もうその面影すら思い出せずに居た妹の姿。その頬に涙が滑る。
「ずっと、……ここに居たのかね?」
 声も無く、女性の影は微かに顎を引く。
「私を、待っていたのかね?」
 こぼれる微笑み。
 ゆっくりと前に進む、足。
「クロイチ、ここまでで良いよ。後は一人で大丈夫だ」
 そう言ってライホウは自分を前へと引いていた手から指を離した。
「……私は随分と長い間、夢を見ていたのだね」
 その姿すら思い出せなかった大切な者達。
「いい夢だ、最後に」
 ゆっくりと目を閉じる。
「ありがとう」
 光。
 その姿は光になって空へ、闇の中へ溶けていく。
 消えていく男の姿を見つめていた女性の影もいつの間にか消えている。
 そして式神の姿も、その名はゆっくりと大極の印に吸い込まれていく。
 自らの世界へと還って行ったのだ。








 ふわり、ふわりと空へ昇って行く光の泡。
 ライホウが居た場所から立ち上り、無の広がる空へと消えていく。
「あれは……」
 リクが呟く。
「――――魂喰らいの死出蟲。屍骸から湧く……妖怪さ」
 コゲンタが言った。
「妖怪?」
「魂を喰うって言われてるけど……よく分かんない蟲さ。最後に良い夢見せて魂を空に連れてくって話もあるけど、そんなの確かめた奴なんて居ねぇ」
「いい夢を―――見られたならいいけれど」
「リク?」
 リクの頬を落ちる涙。
「……………思い出したんだ、昔のこと。母さんが居た、ライホウさんが……伯父さんが居た。僕は嬉しくて……笑ってた」
 リクは手で涙を拭う。
「ずっとああしていられたら……、僕達は戦ったりしなかったのかもしれない」
「リク」
 コゲンタはリクの頭を胸元に引き寄せる。
「お前、また父さんとか母さんの幻見せられたんだろ。でも今度は怒らなかった………偉いじゃネェか」
「……コゲンタ、僕はいつまでも子供じゃないよ」
「バーカ。まだまだガキだろ」
「………うん」
 又少し、リクの頬に涙が落ちた。
「良い夢が見られたら良いな………………」
 そう言ってリクは空を見上げた。
 無の暗闇。
 ゆらゆらと昇っていった光はその中に溶けて、消えた。
 まるで儚い命の虫のように。




蛍




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